猫先生の長めのつぶやき

This is what I am. This is what you are.

「苦しい」から解放されるには

 何かがあったわけじゃない。でも、辛いときがある。怖いときがある。苦しいときがある。
子供の時は活発で、授業でもよく発言するし、部活では部長だった。
カンペキな幼少期を送ったとしても、カンペキ主義が由来してネガティブな部類になった。
人とは時を経て、変わるものなのです。


何か特別な事があったわけじゃない。
だけど心の中には汚い水がたまったバケツがあって、今にも溢れ出しそうな勢いなの。


どうして、こんなに苦しいの。
いつからこんなになっちゃったの。


「気持ちを抑えるようになってから」では?



小さい頃は「正しいことは言葉にしなきゃ。」と思っていた。イジメをやめさせたこともある。
思春期になると「正しいことで回っているんじゃない」と知った。正しいことではなくて、社会的な地位とか名誉とかで人は生きているんだと知った。
恥ずかしいことは、ひたすら隠さないと、と知った。
大学生になると「正しいことでも地位とか名誉とかでもなく、人から見た印象が大事なんだ」と感じるようになった。
有名な自己啓発本を見たりした。
しかし中途半端に小綺麗な印象にしたおかげで、中身のドロドロした部分がどんどん心の奥に入り込んでいった。
人と接していて「私はこの人と仲良くなりたいから、良く接しているのか」「この人はいい接し方をしているけれど、内心は私を騙そうとしているのではないか」と不安になることが増えた。

社会人になると「君はどう思っているの?」「何がしたいの?」と先輩から言われるようになった。
物事に対する主張はできるので行う。
ただ、自分の意見を混ぜることが怖いのだ。
「否定されたらどうしよう」「そもそもこの不安を悟られたらどうしよう」「できない奴だと思われてしまう」「居場所がなくなってしまう」
と恐怖だった。今も恐怖は変わらない。
それでも耐えられなくなったとき、先輩に恐怖をさらけ出してみた。



先輩は言った。
「君より長く生きているんだ。悩みや恐怖がなかったことなんてない。だから君が何を言おうと何に苦しさを感じていようと、変だと思ったりしない。」



私をさらけ出せるのはごく数人の友人。
あとは顔見知りで、恋愛なんて無理だ。



書いてみると客観的に沼に入り込んで悲劇のヒロイン気取ったようだが、先輩の話でわかったことがある。
「苦しいのは、我慢しているから。」
心の中のバケツに汚い水を溜め込んでいるから、苦しかったのだ。
そして苦しさを話すことにより、上辺だけの関係性がなくなった気がした。



モノが溢れていて、何不自由がないこの日本でも
人々はどこか「苦しさ」を抱えていると感じることがある。
FacebookInstagramでは毎日のように幸せそうな写真があがってくる一方、
Googleの検索ワードの予測には「生きる 疲れた」が上位に入ってくる。
みんなそれぞれ、何かを抱えて生きているんだろう。世知づらい世の中ね。



「苦しい」から解放されるには、
その苦しさを我慢しないこと。



苦しさを少しでも誰かと共有することで、人との絆ができる。
人との絆が苦しさを緩和してくれる。
情報社会であっても、人との絆が全てだ。
人としての基本に戻れば、また出発できるのだ。


この映画が人気になってるのも、そういうことなんだろう。
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